第2曲:ケット・シーと滑らかな深緑色の日曜日
ケット・シーというものをご存知だろうか?古のスコットランド伝承にも登場するこの猫の妖怪は、しばしば人間の魂を盗み神様を困らせると言われている。冷たい秋風が吹く日曜の夕暮れ、庭園のベンチで過ごす静謐なひとときを台無しにするこの女は、ケット・シーに違いない。
「ふみゃーん」
「やめて。くっつかないで」
「みゃーみゃー」
「あなた、ちょっと臭いわよ。ちゃんとお風呂入ってるの?」
「…ごろごろごろごろごろごろごろ!!」
「ちょっと!やめて!いい加減に離れて頂戴!」
「み゛ゃあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ」
背中に顔を擦り付けてきたネコメイドを力づくで引き剥がすと、やけにものを言いたげな目で睨んできた。は?意味が分からない。人の背中に顔を擦り付けることの正当性をいったいどのように主張するつもりなのだろうか?
「においをつけてただけにゃ!」
もはや怒る気にもならない。ここは冷静に行こう。
「今日は私、静かに本を呼んでいたい気分なの。だから邪魔をしないで頂戴」
「じゃあ読んでれば良いのにゃ、続けるにゃよー」
「や゛め゛な゛さ゛い゛!」
ネコメイドの腕力は華奢な見た目に反して強いが、私はあくまでも抗う。
「あなた、本当に忠誠心というものがないようね。」
「忠誠心はにゃいにゃー。ただここに居たいという気分が有るだけにゃー」
「そんな気分屋でメイドが務まると思って?」
「務まらにゃいにゃー。だからご主人さまのところに居るのにゃー」
「ちょっとそれどういうことよ!?」
「自分の役が務まらにゃいのは、ご主人さまも同じだにゃー」
「煩いわね…いい加減にしなさい!」
ついカッとなり力任せにネコメイドを押し倒す。一瞬、感情に任せたその乱暴さを後悔するが、それでもネコメイドの背中は音もなく、柔らかく着地する。この光景は何度か見た。金と白金のオッドアイを覗き込む度に、私は自分の粗暴さが嫌になる。私はいつも拒絶してばかりだ。
「ご主人様。もう2週間も本を読みたい気分にゃよ。そんにゃに本ばかり読んでいると、本の世界に吸い込まれてしまうにゃよ」
「本の世界?安心して。そんなものは存在しないわ」
「私も見たことはにゃいのいにゃ。でも、吸い込まれてしまった人はたくさん知ってるにゃ」
「ふーん。でもいいじゃない。私きっと好きよ。本の世界。だって街にあったもので今ここにあるのは…」
「本だけだもの」
忌々しい言葉が空気と混ざる。田園地帯を吹き抜けた風は木々に冷やされ、重く冷たくなって体に纏わり付く。今はただそれを振り払いたい。
「でもね、本だけはあるの。素晴らしいことよ。生活が変わっても身につけた知識が奪われることはないし、学ぶことは何時だって、誰にだって推奨されるものよ。良いことじゃない。そこが海の見える街でもこんな田舎の暗いお屋敷でも学ぶことの大切さは変わらないことのなのよ」
「おさかにゃ。コーヒー。カリカリのスコーン。朝に新聞を配る少にぇん。毎晩ご主人さまを飲みに誘うアイツ。でっかいドブネズミ。あと私はたべれにゃいけどご主人さまは大好きにゃチョコレートにゃるもの。でも、ここにはにゃんにもにゃいにゃ。私も紙とインクの匂いは大好きにゃよ。でも、それだけで生きるはとってもものたりにゃいんだにゃん」
勝手な奴だ。全て知っているくせに、勝手な奴だ。ここまで私の心を逆撫でしておいて平気でいられるのは何故なのか。そしてここまで莫迦にされても私がこのネコメイドを追い出せないのは何故なのか。
「自由に生きることだにゃん」
金色の目に心を読まれた気がしたが、答えてはくれなかった。
「お父様が死んで、この屋敷に呼び戻された時から、私にはもう自由なんてないの。いつかこんな日が来るんじゃないかないかって、色んなことを勉強して身につけてきたけど、それも中途半端で終わってしまった。これからはお父様の農園も、炭鉱も私が守っていかなきゃいけない。でも、学校も出てない小娘じゃ到底無理ね。どうすればいいと思う?」
「やるだけやって野垂れ死ぬのにゃ」
「駄目駄目。私が守るのは私だけじゃない。この村で働く皆を守らなきゃ」
「にゃら、さっさといい男捕まえてそいつに全部任せればいいのにゃ。そしたらご主人様は左団扇のお気楽生活と洒落込むのにゃ」
「それが良いわね。でもね。それは私にとって本当の自由じゃない気がするの」
本当の自由、それがひどく幼稚な言葉に聞こえた。自分の顔がくしゃくしゃになっていくのがわかる。ネコメイドが目を丸くしている。こんな顔は誰にも見られたくはないから、せめて、後ろを向いて誤魔化そうとした。そしたら、何か暖かいものに包まれた。
「やめて…離して」
「今は逃げちゃダメにゃー」
きつく抱きしめられて、振り払えない。泣いてる顔を見られた挙げ句、ネコメイドのエプロンに顔を埋めている私はきっととても格好悪い。
「今は、逃げちゃだめにゃ」
少しの時間、お互いの息遣いだけを感じていた。ネコメイドの体は温かくて、少し熱いくらいで、その肩がゆっくりとした呼吸に合わせて上下しているのを感じる度に、私の呼吸もだんだんと穏やかになっていった。言葉を吐き出す度に痛んだ胸のつかえは解けて、固く冷えた手足に血液が通い始める。庭園の中で張り詰めていた沈黙は緩み、やがて様々な音が帰ってきた。木々の葉の擦れ合う音。噴水の水の滴る音。小さな虫たちの奏でる音。それら全ては一つに混ざり、やがて時間は滑らかに進むようになった。
「ねぇ」
「にゃー?」
「街が懐かしいわ」
「そうだにゃー」
「チョコレートが食べたいの」
「今度取り寄せればいいにゃ」
「駄目。自分で見てその日の気分で選ばなきゃ」
「困った気分屋さんにゃのにゃ」
「そう言えば来月、バリツのお師匠様に新しい技を教わる予定だったのに」
「まだ強くにゃるつもりだったのにゃ?!」
「呼んだら来てくれるかしら?それに、そろそろ自主的に稽古しないと体がなまっちゃうわね。あなた、今晩でも相手して頂戴」
「お手柔らかに頼むのにゃ~」
「あー、でも、もうお庭が有るから下の階の人に気を使わなくてもいいのね。良かった。これで私も思いっきり動けるわね」
「痛いのは嫌にゃんだにゃー」
「…学校のみんな。元気かしら?」
「にゃはははははは!にゃんでご主人さまが心配するのにゃ。今はご主人様が心配される側にゃんだにゃ。自分に自信がありすぎるのにゃ」
「最後の一言は余計よ」
「にゃん」
「あ、課題の提出期限……まぁとっくに過ぎてるわね…別にいいわ、全然分からなかったし」
気付いたらあたりはもうすっかり暗くなっていた。私もいつの間にかネコメイドの膝を枕にベンチに寝そべっていたが、田舎の夜は冷えるからもう少しこうしていようと思う。
「失ったものは、まだ、意外と少ないわね」
「 “まだ” にゃ」
「そう。だからここからが、頭の使い所。私、頑張らなきゃ。先のことを考えるとちょっと目眩いがするけど。“こういうときに何とかできるように“今まで色々身につけてきたのですもの。そうよね?」
そのつもりはなかったのについネコメイドの顔を見上げてしまった。左右で少し色の違う金色の瞳が意地悪そうに輝いていた。え?意地悪そうに?
「にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ!」
やっぱり顔やらエプロンやらを擦り付けてきた。
「ああもう!さっきから何なのよ!」
「お呪いにゃ。迷子ににゃっても帰る場所を忘れにゃいように、お家の匂いを付けておくのにゃ」
もう、どうにでもなれ。甘んじて付けられよう。
「匂いは記憶にゃ。にゃによりも強く思い出を蘇らせるものは、音でも絵でにゃい、匂いにゃ。だから一番に私を思い出して欲しい人に、私は私の匂いをつけるのにゃ。あと、探すときにも便利にゃ」
擦り付けられるごわついた木綿のエプロンは、少しだけ街のにおいがした。そして
「…臭いわ」
「に゛ゃに゛ゃ!!」
(つづく)
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