第1曲:ケット・シーと赤くてきらきらした昼下がり

 ケット・シーというものをご存知だろうか?古代ケルト神話に端を発するこの猫の姿をした妖精は、時に意地悪な魔女の使い魔か、魔女自身が化けた姿であると言われている。よく晴れた春の昼下がり、カフェテラスで優雅に紅茶を楽しむ私を猫なで声で苛立たせるこの女は、ケット・シーに違いない。 「にゃおーん」 「ふにゃあー」 「みゃおーん」 「何をしてもダメなものはダメよ。諦めなさい」 「そんにゃー、お嬢様はお金持ちにゃのにたったいっこのすこーんすら恵んでくれにゃいのかにゃー」 「ええ、恵まないわ」 「どケチだにゃー」 「この私が誰かの意思に従って動くということが気に入らないだけよ」 「ふにゅぅ…」 「メイドのクセに意地汚いのね。いったいどうしてお父様はあなたみたいのをよこしてきたのかしら」 「そりゃー、前のメイドさんはみんにゃお嬢様にクビにされてしまったからにゃー」 「今どきメイドなんて連れて学校に行ったら笑われてしまうわ。それにこれからの時代は女でも自分の力で生きていくものなのよ。だから、学費を出してくれることには感謝してるけど、メイドはいらないの。⁠屋敷に帰って、お父様にそう伝えて」 「帰らにゃいにゃー」 「…そう、なら暴力に訴えるしかないようね」  私は音もなく立ち上がり、普段から履いている登山用のブーツでネコメイドのか細い足を跳ね上げる。 「はにゃにゃッ!」  動揺して宙に浮いたその体を抱きかかえる。お互いを見つめ合うような姿勢になって、ネコメイドは頬を赤らめている。よく見るとその瞳の色は左右でわずかに違う。 「そんにゃにみられると照れるにゃあ…」  もし私が昔話に出てくる王子でネコメイドが姫君であれば、このまま熱く接吻を交わすだろう。しかし現実は違う。私の習得したこの東洋の拳法は敢えて力を込めないことで圧倒的な破壊をもたらすのだ。右腕を躊躇なくネコメイドの顔面めがけて振り下ろす。手の形はもちろん「グー」だ。大丈夫。当てることはない。真に折るべきは相手の顔の骨ではなく心だ。ギリギリで止める。これが支配のための本当の暴力である。私は今までそうやって生きてきた。勉強も暴力も同じ。より強い方が相手を支配できる。私は誰にも支配されたくない。そのための最も簡単な方法は支配される前に相手を支配することだ。もちろん、暴力で。 「だめだめ。人間の動きにゃんて遅すぎるのにゃ。うちらはもっと早―いものをガキのころからおっかけてんだにゃん」  ネコメイドの柔らかな手のひらに私の拳は受け止められた。しかもその拘束は固くピクリとも動かすことが出来ない。 「あなた、ただのメイドじゃないみたいね」 「にゃはは、おかしいのにゃ。普通に考えてこんにゃにゃーにゃーいうメイドがただのメイドにゃわけがにゃいのにゃよ!」 「…お父様の最終兵器ってわけね」 「兵器じゃにゃくてメイドにゃ。でも最後にゃのはあってるにゃ」 「気に入ったわ。使ってあげる。ちょうど稽古の相手が欲しかったのよ」 「それはにゃによりにゃんだにゃー!」 「じゃまずは挨拶にゃ」  不意に拘束されていた右腕を惹かれ、体勢が崩れる。ネコメイドの左右で色の違う瞳が目の前に迫ってくる。最初に鼻と鼻の先が触れ、そして 「ちゅーーーー」 「◎△$♪×¥●&%#?!」 「………ぷはっ!……」 「…ハァ…ハァ……生臭いわ…」 「にゃははは!ここの店の茶は渋いのにゃ!安物にゃのにゃ!」 「あなた、いくらお父様に気に入られてるからといって、主人に向かってやって良いことと悪いことがあるわよ」 「しかたにゃいのにゃ、にゃん万年も続く伝統的にゃ挨拶にゃんよ」 「そういうわけでよろしくにゃのにゃ。ご主人様」  そういうと、ネコメイドは目を閉じて、むやみやたらに深々とお辞儀をした。こうされてしまうと、今まで熱くなっていた頭の血がスッと冷めてしまう。私としたことが、優雅な昼下がりを過ごすつもりが大変な醜態を晒してしまった。ここは一つ名誉を挽回せねば。いつの時代も強者が大衆にやって見せるべきことは「施し」である。そっとスコーンをひとつまみ。 「…これ、食べてもいいじゃないのかしら」 「いいのにゃ?」 「勘違いしないで。私はもうこのスコーンに興味が無いだけよ。それをあなたが勝手に食べてもなんとも思わない。別にあなたに食べて欲しいとか、食べるのを許可するとかそういう ことじゃないわ。私はあなた程度の存在に感情を支配されたりしないの」 「ご主人さま。ありがとうごぜぇますにゃ」 「…あ、でも、クリームを塗ってにゃい奴がいいにゃ」 (つづく)

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